ログイン澪の提出した企画書は、ダーマコードにとって負担になる内容だったものの、手応えはかなりよかった。今後も会議を重ねていけば、いいものを作り上げることができそうだ。
風呂上がり、澪はドレッサーの前で手作りの化粧水を頬に馴染ませていた。ホホバオイルのやさしい匂いをまとった指先が、ふと止まる。
それにしても、会議中の澪への心配りはなんだったのだろう。プロジェクトリーダーとはいえ、取引先の担当者にあれほど細かいことをする必要があるのかと思ってしまう。
資料の置き場所はたまたまだと思える。けれど、コーヒーの温度は仁の指示に違いない。澪のコーヒーだけぬるめにしてくれと指示したのだと思うと、頬が熱くなる。それに、その指示を受けた人は、不思議に思ったかもしれない。自社の社長が、取引先の担当者のコーヒーの好みの温度を知っているなんて、普通はない。
そんなやさしさを向けられて、嫌な気持ちになる人などいないだろう。
しかも、あの夜のことはなかったことにしてくれと頼んだのに、仁はこうして澪のことに心を砕いてくれる。
<実際、誕生日には特に予定がない。去年は直哉が一緒に過ごしてくれていたが、今年はそれもない。仁はきっと澪の誕生日なんて忘れているだろうから、誘っても来ないだろう。だからといって、自分から誕生日を教えるのは催促しているようで嫌だ。「今年は、ひとりで過ごす予定です。もし奈央さんが空いていたら、一緒に過ごしてもらおうかな?」 自虐風に笑いながら言うと、奈央は首を振った。「一応、その日は空けときな。なにがあるかわからないんだから」 奈央は「じゃあね」と手をひらひらさせて、オフィスに戻っていった。 澪はその後ろ姿を見送った。 ――なにもないと思うんだけど……。 手元のスマホを見つめた。仁の返事の《そうか》という言葉が、やけに沈んで見えた。 翌週の月曜日、グロウセオリーの会議室で真壁と有村と打ち合わせを行った。先行予約では好評だったが、本格販売が始まったとき、どれほどの人が購入してくれるのかはわからない。先行予約に間に合わなかった人や見逃した人、さらに市販の化粧品が肌に合わない人にも届くようにしたい。「サンプルをお渡しできたらいいんですけど、セミオーダーだから難しいですよね……」 澪が真壁に確認すると、渋い顔をされた。「そうなんですよね。処方が同じならパウチのサンプルが作れるんですけど。今回のOnlyé for youはそれぞれの肌質に合わせてセミオーダーですから……。ただ、実際に使っていただくのが一番なんですけどね」 真壁とふたりでうなり声を上げた。「先行予約をしてくださった方って、以前、Onlyéを使われていた方ですか?」 有村が口を開いた。澪が驚いて有村に顔を向けた。ホームページや広告のデザインにしか興味がないのかと思っていた。だから、有村が商品のことを聞いてくるとは思わなかった。「そうですね。ほぼ全員が既存客です」「だったらやっぱり、使ってもらわないことには新規顧客の流入は難
急いで会社に戻って、席に座る。息を整えようと大きく深呼吸をするが、うまく息ができず、苦しい。紙袋の持ち手を、すごい力で握っていたようで、ありえないほどしわくちゃになっていた。「仕事……しなくちゃ……」 本当は仁に差し入れを持っていったら、少しダーマコードで打ち合わせをして直帰する予定だった。しかし、それが叶わず会社に戻ってきたのだ。 首筋に汗がにじむ。 しわくちゃになった紙袋を、澪はデスクのいちばん下の引き出しに押し込んだ。奥のほうへ、見えなくなるまで。それから、そっと引き出しを閉めた。 ようやく、息は整ってきたものの、胸の奥に、薄い刃で切り刻まれたかのような重い痛みが走る。 何度も深呼吸をして、ようやく頭が回るようになってきた。 ダーマコードのビルの前で、仁が千華を抱きしめているように見えた。人目を憚らずにあんなことをするのだから、澪の入る隙は一ミリもないということだ。 つまり、縁談は本当にあり、資本業務提携を前提に話が進んでいるということだ。しかもふたりはもうすでに恋人同士となり、深い仲に発展している。 考えれば考えるほど、辻褄が合ってしまう。 このところ仁がグロウセオリーに顔を出さなかったことも、打ち合わせを真壁に任せきりにしていたことも、全部そういうことだったのだ。 そう考えると、苦い笑いが漏れた。 ――あたし、もう、無理じゃん……。 せっかく仁が告白してくれたのに、澪がぐずぐずしていたせいで、仁はほかの人のところに行ってしまった。直哉に受けた傷を引きずっていると伝えたとき、仁は理解してくれた。だから、ずっと澪のことだけを好きでいてくれるのだと、澪は勘違いしていた。 本当に馬鹿だ。 待っていてくれるなんて。 十七年待った人に、さらに待たせておいて、それを当たり前だと思っていた。 失うのがこわい、などと思わなければよかった。だってもう、始まる前に、仁を失ってしまったのだから。 そのとき、
忙しいのに、わざわざ仁は差し入れを持ってきてくれた。 ひと目会えただけでも、心のなかがじんわりとあたたかくなった。 ――いつももらってばっかりだから、あたしも……。 明日は取引先との打ち合わせで外出の予定がある。そのときに、仁に差し入れを買って、持っていこうかな? 急に行ったら、驚くかな?* 千華にふたりで会おうと言われたが、レストランやカフェでは誰が見ているかわからない。業界内では、婚約間近だと大きく騒がれている。自分は雑誌の取材を受けたこともあるので、顔を知っている人もいるだろう。「ふたりきりで会っていた」などとSNSで拡散されるのも面倒だ。そこで、千華の申し出は了承しつつ、会う場所はダーマコードの会議室に指定した。 約束の時間より前に、会議室に入り千華の到着を待った。蛍光灯の光が冷たく部屋を照らしている。仁は椅子に体重を預け、腕を組んで目を閉じた。 しばらくすると、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」 仁が声をかけると、ドアが開き、千華が会議室に入ってきた。まっすぐな黒髪。白いシックなワンピースが、まるでウェディングドレスのように見えた。「失礼します」 丁寧に頭を下げると、千華はまっすぐに仁と目を合わせてきた。「本日は、無理を言いまして申し訳ありません」「いえ、とんでもないです。どうぞ、おかけください」 仁の向かいに腰を下ろした千華は、背筋を伸ばし、膝の上で両手をそろえていた。仁が口火を切ろうとしたとき、千華が先に口を開いた。「高宮社長、今回の提携の条件の件でお話をしたいと思います」「はい」 仁は千華をまっすぐ見つめた。腹の奥に力を入れる。「私と高宮社長との婚姻の件ですが、私は前向きに考えたいと思っています。あなたとなら、素敵な未来が想像できるからです」 頬は少し赤らんでいるが、言葉は震えていない。「最初は祖父が勝手に進めていた話でしたから、あまり気乗
仁の言葉の後、三人の間にしんと沈黙が訪れた。喧騒が遠のいていく。 有村は口角を上げて、ニヤリと笑った。「へえ……。そんな感じですか」 澪が有村に目を向けると、有村は笑ったまま、視線だけを仁に向けていた。 なんだ、この一触即発状態は……。仁は、今にも噛みつきそうな顔だ。「と、とりあえず、もう遅いですし、帰りましょう? ここにいては迷惑になりますし」 澪はふたりに向かって声をかけた。駅前で見目のよい男同士がにらみ合っているからか、遠巻きに女性が集まってきた。「あれって、なんていう会社だったっけ? 社長だよね」なんて声も耳に届いた。 そうだった。仁はビジネス誌だけでなく、ファッション誌にも顔出ししている。目鼻立ちの整った顔立ちなのだから、世の女性が放っておくはずがない。「あの背の高い人、モデルかな? めっちゃかっこいいんだけど」 一方の有村も負けていない。すらっと背が高い。切れ長の目は冷たそうに見えるが、ほかの顔のパーツとの相性なのか、やけにやさしく見える。 とにかく、このふたりは黙っていても、人目を引くのだ。「ああ、そうだな。澪の言うとおりだ。送っていくよ。澪、行こうか」 仁がすっと手を澪の腰に回した。まるで恋人のように。「じ、……高宮社長?」 澪は逃れようとしたが、ガッチリと回された腕は、澪の力では剥がすことができなかった。 仁が歩き出そうとしたとき、澪は有村に腕を掴まれた。「……え?」「僕が朝倉さんを誘ったので、僕が送って帰ります」 その言葉に仁は目を細めた。まるで氷のビームでも出てくるのではないかと思うほど、まとう空気が冷たい。「ご配慮、感謝します。俺、車で来てるんで、俺が送ります」 そう言うと、仁はさらに澪の腰を自分へと引き寄せた。 ――ちょっと、一体どうなってるの? 気づけば、澪は
仁がなにか言うより先に、有村が「決まりですね!」と手を叩いてしまった。そのせいで、あの場では「業務ですので」としか答えられなかった。 翌日、有村とともに市場リサーチに向かった。待ち合わせの駅に行くと、すでに有村の姿があった。「朝倉さん!」 有村は手を高く挙げ、ぶんぶんと振っている。そんなことをしなくても、背が高い有村は遠くからでも十分見えるのに。 まるで大型犬が尻尾を振っているような姿を見て、澪は思わず口元をほころばせた。「お待たせしました」「ぜんぜん、待ってませんよ。あ、荷物持ちますよ」 澪の肩から下がっているバッグに、有村はすっと手を伸ばした。別に重たいわけでもない。「いえ、大丈夫です! そんなに重いものでもないですし」 澪が断ると、有村は眉を下げた。「そうですか……。当たり前のことをしたんですけど、迷惑でしたか?」「いえ、そういう意味では……」 迷惑というより、外国の紳士のような態度に戸惑っただけだ。「さあ、行きましょう!」 有村は気を取り直したように、声を張り上げた。 やけに張り切っているように見える。 ――まあ、楽しく仕事をしてくれるのなら、いいか。 澪は先導する有村についていった。「今日は、百貨店やスーパー、ドラッグストア、セレクトショップなどを、できるだけ回りたいんです」 有村はスマホのマップアプリを開いて言った。「そんなに回るんですか?」「はい。たくさん見たほうがイメージしやすいですから。Onlyé for youのデザインに似たものがあれば、参考にしたいと思っています」「そうなんですね」 上司は有村のことを「ちょっと軽い」と呆れていたが、そんなことはなさそうだ。仕事はしっかりこなすようで、内心ほっとした。 有村のスマホを見ると、マップにたくさんピン留めしてある。今日、
「あなたに会いたくて、この仕事、受けたんです」 まったく、理解できない。 今、会議室に入ってきたクリエイティブディレクターは、澪の目の前に立っている。いま、なんと言った? 「あなたに会いたくて」と言わなかったか。「え……っと」 澪は固まったままで、そう言うのがやっとだった。 しばらく目の前の有村を見つめているうちに、澪はようやく我に返った。ざわざわと会議室でプロジェクトメンバーがささやいているのが耳に届いた。「なに? 朝倉さん目当てってこと?」「っていうか、朝倉さんって、付き合ってる人いるんじゃなかったっけ? ほら、ダーマコードの……」「違う違う、あれはデマだったでしょ?」 上司が咳払いをした。大きな音に、澪の体がビクッと震えた。「有村さん、まずはご着席ください。今後のことについてお話しできればと思います」「ああ、すみません! 僕、前のめりすぎましたね」 有村は澪ににっこりとほほえみ、向かいの席に座った。なんともマイペースな人だ。「皆さん、改めてご紹介します。こちら、今回のプロジェクトに入っていただく、クリエイティブディレクターの有村さんです」 上司が向かいに座る有村を紹介した。有村はガタッと椅子を鳴らしながら立ち上がった。「改めまして、有村です。今回のプロジェクト『Onlyé for you』のクリエイティブディレクターに就任いたしました。ホームページと広告をメインに作業させていただきます」 丁寧にお辞儀をするところを見ると、社会人としては問題ないようだ。有村は、すっと椅子に座った。背筋を伸ばし、姿勢がいい。「弊社で本プロジェクトの指揮を執っているのは、朝倉です。今後、彼女と話すことが多くなると思いますのでよろしくお願いします」 上司が澪を紹介したので、澪はその場に立ち上がった。「朝倉です。どうぞよろしくお願いします」 頭を下げてからゆっくり上げると、有村は口元をほころばせた